1. はじめに
現代日本が「飽食の時代」と呼ばれるようになって久しい。戦後の貧困を出発点として高度経済成長を迎え、バブル崩壊後の不景気が取り沙汰される風潮に社会が揺らいでも、食べ物が無いという飢餓や極貧に喘ぐ者は皆無である。日本人はもはや生きるためだけに何かを食べるのではない。
もっとも、「実用的な行為にとどまらず儀式になった」食の役割の「革命的変化」は、日本をはじめとする先進諸国の成立を待たずして既に多くの社会で見られた現象だった。「どの社会でも、食べることは文化的な変化――時には魔術的な変化――をもたらす行為であ」り、食習慣や食生活は「宗教や道徳、医学とは相互に影響しあっている」 [フェリペ、2003:62]。
このように食を捉えると、「健康食品ブーム」や「ダイエットブーム」といった食に対する人々の関心にも、宗教が敬遠されがちな日本においてさえ、その根底では宗教的色彩が見え隠れする。だからこそ、先進諸国特有の摂食障害――拒食症と過食症――も、単なる肉体的・精神的病理として片付けてはいけないのではないだろうか。本論文では、摂食障害を宗教的に読み解くことを目的とする。
2. 摂食障害について
まずは、摂食障害の定義を示しておく。米国精神医学会が編纂した『精神疾患の分類と診断の手引き(DSM-IV)』の拒食症と過食症の診断基準について、以後の論述に必要な箇所だけ要約・抜粋した。
<拒食症>
A、年齢と身長に対する正常体重の最低限、またはそれ以上を維持することを拒否する。
B、体重が不足している場合でも、体重が増えること、肥満することに対する強い恐怖がある。
C、自己評価に対する体重や体形の過剰な影響、または現在の低体重の重大さを否認する。
<過食症>
A、むちゃ食いのエピソードを繰り返す。
B、体重の増加を防ぐために不適切な代償行為(自己誘発性嘔吐や下剤の誤った使用など)を繰り返す。
C、自己評価は体形および体重の影響を過剰に受けている。
双方の病状に共通しているのは、食べ物の摂取に対する少女たちの認識が一般人のそれとは異なっている点、およびその認識を支えているのが自己評価の可視的要素への依存である点に集約されよう。
3. ケガレとタブーについて
ここで摂食障害を考える手掛かりとして「ケガレ」(以後の「汚れ」「穢れ」「汚穢」などは全て同じ用語であるとする) と「ケガレにまつわるタブー(禁忌)」の概念を導入したい。
そもそもケガレとは何か。ケガレは「一般に清浄に対する不浄の意」として用いられる[福田・宮田、1983:276]。ここでの不浄とは、決して衛生面での不潔さ――排世物や腐乱死体から生ずる細菌や腐汁などの存在――に限定されない。
例えば、死に係わるケガレは火を媒介として伝染するため、それを避ける必要性から別鍋・別火の方法による食事が行われる場合がある[福田・宮田、1983:153]。火を媒介に不浄の源が伝染していくなどという科学的根拠はどこにもない。しかし、この例から理解できるのは、ケガレの本質が科学の規定する絶対的な価値判断に必ずしも依拠していないことである。メアリ・ダグラスの言葉を借りれば「汚れとは、絶対に唯一かつ孤絶した事象ではあり得ない」。つまり、「体系的秩序において拒否されたあらゆる要素を包含する全体的要約」という「相対的観念」がケガレなのである[メアリ・ダグラス、1985:79]。
先の例でも判るとおり、「生」に基づく日常の体系的秩序を「死」が混乱させる以上、「死」を想起させる行動から波及していくあらゆるものがケガレと考えられるのだ。そこでは通常ケガレていない火までがケガレとして扱われることになる。より卑近な例と比べるならば、普段は汚いと意識することのない靴が、食卓の上に乗った途端に汚いものへ変容するのと同じ感覚なのである。
このような「相対的観念」としてのケガレは容易に倫理的・審美的領域にまで拡大する。「アイツの行動は汚い」「あの人に触れると手が汚れる」といった言葉にも明らかな通りである。しかし、ケガレとそれらの領域とは必ずしも一致しない。倫理規範を例に双方の違いを比較してみよう。再びメアリ・ダグラスの言葉を引用する。
汚れの規範は倫理的規範に厳密に対応するものではない。倫理的に悪であると判断されながら汚れの信仰に触れない行為もあれば、倫理的にはそれほど不都合とは思われないのに汚れの禁忌に触れかつ危険とされている行為もある。時によっては、倫理的に悪であってしかも汚れをもたらすものもある。つまり汚穢の範囲は、倫理的に是認されない行為のごく一部を強調するにすぎないのだ。[メアリ・ダグラス、1985 : 246)
確かにケガレの規範は、倫理規範の全体を覆うものではない代わりに、「不明確な余地を残さない」厳しさを内包する。ケガレは「権利と義務との微妙な均衡とかに依るのではな」く、「禁じられた接触が行われたか否かという事実」のみを問題にするからである。
したがって、ケガレと倫理規範の一体化を行えば、「その本質からして、単純、堅固かつ硬直したものに還元し得ない」倫理規範を補強することができる[メアリ・ダグラス、1985:248]。そしてケガレと倫理規範が結び付いたものがタブーと考えられよう。
タブーに関しては、リーチの定義の要約を引用しておく。
人間がそのなかに存在している物理的時間的環境は実際には連続体であるけれども、われわれはそれを非連続的な要素からなると知覚する。すなわち、連続体の異なるセクションの間で、恣意的な価値の区別がなされているのである。実は、タブーとはこの区別のプロセスの一部であり、非連続と認識される二つの隣接する境界の部分に対する働きである。(中略)すなわち、たとえば、われわれ自身でありながらわれわれ自身ではないもの、ある領域に属していながら別の領域に属するようなもの、それ自身まったく相矛盾した存在、それらこそがタブーの対象になっているというのである 。[植島、1993:212~216]
なるほど、リーチのタブーの定義に従えば、多くの事例におけるケガレとタブーの根拠が明らかになる。別鍋・別火の例では、「生」と「死」の境界線上で用いられる火を対象としていた。食卓上に靴を置いた子どもが母親に叱られるのも、身近な存在である靴が決して「食事」という行為に結び付かないことに起因する。同時に、タブーは、自己(もしくは自己の属する集団)と非自己 (もしくは自己の属さない集団) を区別する重要な規律でもある。
例えば、ユダヤ人は豚肉を食べることをタブーとしている。そこには「ある食べものをあえて食べないことによって、自分がユダヤ人であること、ユダヤ人であることを誇りに思っていることを示」すのである[フィリップ、1998:107]。つまり食べ物の制限は「トーテム的な象徴として、タブーを守る人々を結びつけ、タブーを犯す人々に烙印を押す。許された食べ物はアイデンティティを養い、禁じられた食べ物はアイデンティティを明確にするのを助ける」。これによって「社会の存続を助ける集団的信仰」を支えるのである[フェリペ、2003:66~67]。
自己の確立のためには自己と対照的な非自己の存在が不可欠であり、その非自己が異様な存在であればあるほど、自己の統合や正当化に役立つ。しかし自己と非自己を区別する基準が曖昧では困るため、それを食べ物のような身近な事象にタブーとして押し込める。タブーを侵犯する者は容易く切り捨てることができるからだ。
タブーを媒介とした自己と非自己の対立は、『聖書』の解釈をめぐって血みどろの闘いを繰り広げたカトリックとプロテスタントの歴史や、現代社会におけるキリスト教圏とイスラム教圏の紛争と同義なのではないだろうか。そしてケガレやタブーのもたらす対立図式は世界規模に拡大されるとともに、個々人の内面的葛藤にも適用できると思われる。
以上をふまえて、摂食障害という個人的な病理への考察を進めていきたい。
4. 摂食障害とケガレについて
摂食障害のうち、拒食症は食べ物を食べない症状である。一方、過食症は食べ物を大量に食べる症状であるが、摂取したものを体内に取り込まないように嘔吐や下痢などを自ら誘発する。
食べ物は生命を維持していくために不可欠であるため、本来嫌悪の対象となることはない。しかし十分過ぎる食糧に恵まれた現代日本において、食べ過ぎることは健康を害することとして白眼視され、食べ過ぎて太った体形は不健康の象徴であるばかりか、自律性を欠いたが故の醜態として嘲笑の対象にすらなる。
青年期を生きる一部の少女たちは、「太らないこと」が美徳とされる社会の「体系的秩序」を敏感に感じ取り、その秩序に基づいて食べ物をケガレとして認識するのではないか。彼女たちにとって、太る原因をもたらす食べ物が体内に入り込むのは、死のケガレに触れるのと同じなのである。したがって、拒食症者は食べ物を口にすることさえ拒むし、過食症者はいったん口に入れたものを即刻体外に出すことで何とかケガレを避けようとする。
では、「太ること」の社会的評価は確固としたものなのか。
過剰に太ることは確かに健康維持の観点から好ましくない。しかし、年齢や身長に相応な体重という観点から考えれば、その正常体重を多少上回ったとしても「太った」とは考えないだろうし、人によっては太っていることを厭わない。誰がどこに基準を合わせるかによって、「太ること」の社会的評価は揺れ動くのである。
それに対して、摂食障害を患う少女たちは、今より体重が増えることが「太ること」であるのと同時に、痩せ続けること が「太らないこと」であると考える。彼女たちは自らが作り出したケガレ――食べ物および食べ物を食べること――を無理矢理社会的評価に当てはめ、それを「不明確な余地を残さない」倫理規範とする。彼女たちにとって、食べ物を食べることはタブーなのである。
前述のとおり、タブーは自己と非自己とを厳然と区別する。そうであるならば摂食障害の少女たちもまた自己と非自己とを区別していることになるが、ここでの自己・非自己とはいったい何か。この問題に答えることは、先進諸国特有の社会問題を見つめる契機ともなる。
5. 考察
もう一度、摂食障害の定義を思い出してもらいたい。摂食障害を判断する基準に自己評価の外形依存――体重や試験の成績といった可視的評価を自分の存在意義と結び付ける傾向――がある。摂食障害の発症は、自我を自ら確立できない苦痛の訴えである。
実際、「太っている」と言われた後から摂食障害を発症した少女たちは、過去においても自己評価を外部からしか与えられない不幸を抱えていた場合が多い。両親に受け容れられたい一身で猛勉強し好成績を残す、もしくは自分を受け容れない両親に代わって友人や恋人に気に入られようと振る舞う――これらの継続的で懸命な努力に挫折したとき、彼女たちは「太っている」自分を急速に意識し始める。彼女たちが望むのは、周囲の人々から評価される自分を取り戻すことなのである。タブーの向こう側にある非自己は、受け容れられない自分であり、彼女たちはそれを摂食障害という形で断絶しているのである。一方、懸命に努力している自分を体重計の目盛が示してくれることで自己の統合や正当化が促される。
彼女たちに顕著なのはアイデンティティの弱さである。宗教的な要素――ケガレやタブー――はそのような弱さを補完する役目を担っている。これは果たして彼女たちを成長へと導くのだろうか。
ここでケガレの定義に新たな視点を導入してみたい。「ケ→ケガレ、ケガレ→ハレ、ハレ→ケの循環構造」の一部としてケガレを理解するのである。「日常態たるケ、つまり生命力あるいはエネルギーを取り囲み、それを維持させている」タブーは、「生命力・エネルギーの補充を意味するハレ、ケが危機的状態を迎えたケガレなどに際して」必要となる[福田・宮田、1983:156]。
摂食障害を患う青年期の少女たちは、食べることの制約=タブーを根拠にアイデンティティの喪失状態=ケガレを彷得っている。しかし、彼女たちはある種の通過儀礼=ハレを経て、再び安定した日常生活=ケの状態に戻らねばならない。タブーは自己を律する基準ではあっても、それを遵守する姿で他者に評価を求めるのは誤りである。自分を正当に評価し得るのは結局自分自身でしかないと気付いたとき、ハレの儀式――他者依存を常としていた自己からの脱皮――は成功したといえる。そして、生命力とエネルギーを補充して食べることを再開するならば、社会は彼女たちを「大人」として受け容れるのである。
彼女たちが自力でケガレをハレに変えるのは難しい。そこで、カウンセラーや精神科医、周囲の大人たちや友人たちが彼女たちを援助する。この援助こそがハレであり、ハレは祭りでもある。彼女たちの成長は、多くの人々が関わり盛り上げることで達成される。
もし現代日本で摂食障害が完治しない少女たちが増加しているならば、一昔前は宗教が担っていたハレの儀式、すなわち祭りが失われている証拠だと考えられる。
引用文献一覧
植島啓司、1993、「タブーと強迫観念」、『岩波講座 宗教と科学8 身体・宗教・性』、岩波書店
フィリップ・トーディ・井上廣美訳、1998、『タブーの事典 それはなぜ[悪い] のか? [いけない] のか?』、原書房
フェリペ・フェルナンデス=アルメスト・小田切勝子訳、2003、『食べる人類誌―火の発見からファーストフードの蔓延まで』、早川書房
福田アジオ・宮田登編、1983、『日本民俗学概論』、吉川弘文館
メアリ・ダグラス・塚本利明訳、1985、『汚穢と禁忌』、思想社
新品価格 |
新品価格 |
コメント