予備校講師が「現代文は論理で解ける」と言うと、必ず飛んでくる批判があります。
こうした批判で多用される「本質」とは、一体何を意味しているのでしょうか?
理系的思考における「本質」
「本質」をめぐる対立は、現代文以外の科目でもしばしば起こります。数学や理科などを例に考えてみましょう。
公式丸暗記を否定する「本質」
公式丸暗記に頼る生徒や数学指導者に対して、まともな数学指導者は「公式丸暗記ではなく、『本質』を理解しなさい」と言います。ここでいう「本質」とは、数多の公式に一貫して流れている思考体系を指します。
たとえば、三角関数の二倍角の公式や半角の公式。これらの公式は、加法定理さえ覚えていれば、わざわざ暗記しなくてもその場で導出できます。もっとも、導出の手間を考えれば「暗記した方が速い」というのも確か。しかし、公式の意味も分からず単に丸暗記するのはやはり危険です。問題をちょっとひねられると混乱するからです。
二倍角の公式や半角の公式に関して数学指導者の語る「本質」とは、加法定理からこれらの公式を導出することを意味します。数少ない重要公式だけ覚え、それを使って数多の公式を導出する、というのが理系的思考における「本質」です。
覚えることを少なくする「本質」
物理では、加速度を積分していけば速度や距離を求められます。速度や距離の公式の丸暗記は不要です。化学では、単位の意味を理解できれば、モル計算も公式に頼らずに解けます。英語にしても、英文法をキチッと理解できていれば、膨大な量の例文暗記をしなくても済みます。
つまり、覚えることを少なくすることが理系的思考における「本質」である、ともいえます。
煩雑な諸条件を捨象する「本質」
物理では、外部から力が加わらなければ、運動している物体は等速直線運動を続ける、と教えます。しかし、現実世界において、外部から力が加わらない環境など、まず存在しません。物体の接触面には摩擦力が働きますし、空気抵抗もあります。
それでも等速直線運動という概念が成り立つのは、現実世界の諸々を捨象してモデル化して考えるからです。つまり、理系の学問分野に登場する概念や公式も、適用できる場面を限定するからこそ成り立つのです。「概念(公式)が成り立たない場面があるから、その概念(公式)は否定されるべきだ」と人類が考えていたならば、数学も物理も発展しなかったでしょう。
理系的思考における「本質」とは、煩雑な諸条件を捨象して整理し、そこでのみ成り立つルールのことです。
ここまでをふまえて、理系的思考における「本質」は次のようにまとめられます。
- 数少ない重要公式から数多の公式を導出する。
- 覚えることを少なくする。
- 煩雑な諸条件を捨象してルールを考える。
こうした「本質」と、一部の国語指導者たちが語る「本質」は同義なのでしょうか?
テクニック否定派の国語指導者が語る「本質」
「本質」を強調する国語指導者たちは、現代文のテクニックを目の敵にします。彼らは、「小手先のテクニック」と対比する形で「本質」というワードを使うんですね。
確かに、「全ての問題を二項対立で理解しよう」のような怪しげなテクニックは汎用性がありません。そうしたごまかしのテクニックを否定するならまだしも、接続語や指示語などの文法ルールに基づいたテクニックにまでケチをつける国語指導者がいます。
全ての問題に通用する解法は存在しない
「テクニック」という言葉を頭ごなしに否定する国語指導者は「本質」を語り始めます。その「本質」とは、「現代文の全ての問題に通用する解法は存在しない」という意味であるようです。
ところで、ほとんどの入試問題は、「解けるように」作られています。大学入学共通テストのように多くの受験生が受ける公的な試験ならなおさらです。解けない問題を大学入学共通テストで出題しようものなら、あちこちから批判が噴出します。そうした事態を避けるべく、大学入学共通テストの作成者は、「解けるように」を厳密に意識して作問するはずです。
この「解けるように」の部分に焦点を当てれば、多くの現代文の問題に通用する解法を導けるはずです。そして、導出された解法を「テクニック」と呼んでも差し支えないでしょう。
もっとも、こうしたテクニックが使えない問題も実際に存在します。しかし、そんな問題は私大文系の悪問ばかりです。例外中の例外と言っても過言ではないでしょう。それをいたずらに強調し、「ほら、テクニックじゃ解けない問題があるでしょ?」と悦に入っているのが、「本質」にこだわるテクニック否定派の国語指導者なのです。
入試問題以外も視野に入れる
「本質」を語るテクニック否定派の国語指導者は、文章読解の範囲を入試問題に限定しません。「大学で読む論文は……」などと入試現代文以外まで視野に入れたがります。
入試現代文の範囲を超えれば、テクニックを駆使しても歯が立たない文章はたくさんあります。「テクニックなんかに頼っていては、大学入学後に書籍や論文を読めなくなる」は当たり前です。
だからこそ、「入試問題」という限られたフィールドの中でテクニックを考えればいいのに、わざわざ入試問題以外に話を広げること自体がナンセンスです。
「本質」を語りたがる自称「文系」人間
僕の経験上の話ですが、「本質」を語りたがるテクニック否定派の国語指導者たちは自称「文系」人間が多いんですね。
自称「文系」人間とは?
理系的思考が苦手な人たちのうち、ある特徴を有した人たちを、僕は、自称「文系」人間と定義します。その特徴とは、「『文系』だから数学ができない」「『文系』だから物理ができない」など、理系科目ができないことの枕詞として「『文系』だから」を使うことです。
自称「文系」人間は、物事の規則を見つけるのがとにかく苦手。膨大な情報の中から本当に必要な情報だけを選別するスキルに乏しく、多くの問題に通用する一貫した解決法を見出せません。何かあるとすぐに右往左往し、自力で解決できないと権威に頼りたがります。いわゆる「体育会系」の中にも、自称「文系」人間が見られます。
背景知識でごまかす「本質」的な授業
自称「文系」人間が現代文(国語)を教える場合、「本質」を掲げてやたらと背景知識を駆使します。
彼らは「近代論に芸術論、宗教論、哲学論……あれもこれも知っていないと、本番の入試では評論を読めないよ」などと生徒たちの不安を煽り、自らの知識をひけらかすかのごとく、熱い雑談に花を咲かせます。そうした授業は「知的好奇心」に満ち溢れ、生徒たちをワクワクさせることもあるみたいです。
しかし、「本質」を重視した授業を受け続けた生徒たちの成績はさっぱり上がりません。「今まで国語の授業で何を学んできたの?」と僕に聞かれても、彼らは首を傾げるだけ。「漢字と文法」と答えるくらいです。それもそのはず、彼らは、現代文全般で使える体系的なテクニックを学んでいないのです。
知的好奇心の前にルールの習得
「生徒たちの知的好奇心を刺激すれば現代文(国語)ができるようになる」という意見もあります。
僕は、この意見に反対です。知的好奇心をいくら刺激したところで、物事を論理的に考える土台の無い生徒たちは、文章を読めなければ問題も解けないからです。
数学を例に考えましょう。計算の技術や公式の理解がおぼつかない生徒に数学の歴史を教えて興味を持たせても、その生徒は問題を解けませんよね?英語も同じです。英文法を一切教わっていない生徒は、いくら英語圏の文化に精通していても、英文を読んだり書いたりできません。だからこそ、数学や英語では、公式や文法といったルールの習得が重視されるのです。
数学や英語では当たり前になされているルールの習得。しかし、日本の国語教育では、その当たり前が行なわれません。一部の予備校講師や民間の教育関係者たちが危機感を募らせ、独自に「●●メソッド」のような手法を提示しています。が、それすら否定して、「そんなテクニックでは問題を解けない」などと「本質」を語り出す国語指導者が依然として多いんですね。
結果として、日本語を読めない・書けない日本人が量産されています。
「本質」という名の泥沼にハマらないために
理系的思考における「本質」とテクニック否定派の国語指導者が語る「本質」。前者は悩める受験生たちの前途を明るく照らすのに対して、後者は受験生たちの足を引っ張る諸悪の根源です。後者は、「本質」という名の泥沼です。その泥沼にハマった受験生たちは、いつまでも「国語ができない」という苦しみに悶え続けます。
受験生は「泥沼」にハマらないように、無意味な「本質」を振り回すテクニック否定派の国語指導者の話を無視しましょう。そして、日本語のルールや多くの入試問題に通用する解法をきちんと習得することが大切です。
トップ画像=フリー写真素材ぱくたそ / モデル=Max_Ezaki 河村友歌 大川竜弥
コメント
「入試国語の指導」は、ね(笑)
あなたのような狭量な発想の方は、「入試国語」には熟達できても、「文学」はできないと思う。
たとえば、文学者や文学研究者になったり、文学的感性の豊かさを要求されるような、政治学、社会学、歴史学といった分野の専門家(研究者・実務家を問わず)には、なれないでしょう。
私自身は、あなたの言われるような、テクニック的国語回答術は大嫌いで、大学に入学してからロシア文学の講義を受けて、本物の文学というものに触れ、激しい感動を覚えました。
それがきっかけとなって国際政治学の専攻に進み、修士号取得後、国際業務を専門とする公務員に就職しましたので、あなたの言われてるテクニック的解法などに拘泥していては、今の生活はなかったことを思うと、この記事から慄然とするものを感じました。
参考までに、英国の外交官の大半は、歴史学・文学などの専攻です。
彼らが、あなたが言われるような、情報処理としての読解術とは正反対の思考様式を身につけて、世界一の外交実務に役立てている現場を、幾度となく目撃しました。
国際情勢が激変し、官民問わず、産官学問わず、我が国の実務者に等しく、自律的情勢認識が求められる今日この頃。
サイト管理人のみみずくです。
貴重なご意見をありがとうございます。
簡単にではありますが、返信させていただきます。
> あなたのような狭量な発想の方は、「入試国語」には熟達できても、「文学」はできないと思う。
まず、「『文学』はできない」の意味がわかりません。
「文学作品を読解できない」「文学作品を書けない」「文学作品を研究できない」のいずれかの意味でしょうか?それとも、「文学作品を読んで妄想しながらハアハアできない」という意味でしょうか?
一行目から意味不明な文を書いて、支離滅裂な思考を晒してしまいましたね。もっとも、そんなことで揚げ足取りをしても仕方ないので、先に進みます。
> 私自身は、あなたの言われるような、テクニック的国語回答術は大嫌いで、……今の生活はなかったことを思うと、この記事から慄然とするものを感じました。
「だから何?」という感じです。
あなたがたまたまそういう人生を歩んだというだけで、そのことが私の意見に対する反論にはなりません。
そもそも、現在学校で行われている国語教育は文学者を育てるためのものではありませんし、入試の国語も文学者の卵を選別するためのシステムではありません。文学がどうこうということ自体、現行の制度を無視した暴論です。
私は記事中で、「『入試問題』という限られたフィールドの中でテクニックを考えればいいのに、わざわざ入試問題以外に話を広げること自体がナンセンス」と書きました。それにもかかわらず、あなたはなぜ、「文学」という、記事中で一切触れられていない無関係な話題を持ち出して噛みついてくるのでしょうか?
あなたのコメントは、牛丼屋を相手に「そばを出さない店は最悪だ」と言っているようなものです。こういうのを「いちゃもん」といいます。
> 参考までに、英国の外交官の大半は、歴史学・文学などの専攻です。
私は、「文学が不要だ」とは一言も言っていません。むしろ、文学は大事ですし、そうした教養を養うための教育が必要だとも思っています。特に、人々を導いていくリーダーであれば、文学や歴史などに通じていることは必須条件でしょう。
一方で、「高校までの国語教育が文学鑑賞に偏っていてダメだ」というのが僕の考えです。学校教育は、さまざまな進路を目指す生徒たちに実用的な日本語スキルを習得させる場であるべきです。しかし、現行の日本の国語教育はそうなっておらず、日本語をまともに読めない・書けない大人が量産されています。このことに危機感を覚えるからこそ、今回の記事を書きました。
あなたもまた、私が問題としている、日本語をまともに読めない・書けない大人のようですね。そして、そんな人でも公務員になれるという日本の官僚システムに慄然とするものを感じました。なるほど、日本が諸外国から舐められるわけです。
あなたは、ロシア文学を勉強する前に、日本語の読み書き能力を鍛えるべきだったのではないでしょうか?
以上です。
長々と失礼いたしました。