人間関係で失敗しないために必要なのは?「好きな人を応援する」の落とし穴

人間関係で失敗しないために必要なのは?「好きな人を応援する」の落とし穴 教育論

私は上京後、特に会社員を辞めて個人事業主になって以降、「好きな人を応援する」という気持ちを大切にするようになりました。

結果として、人間関係のトラブルが激減しました。交流の幅も広がりました。

一方で、私の中で「好き」が暴走してしまったり、「応援」の仕方がマズかったりして、他人に恐怖や不安を与え、さらにはその人との縁が切れてしまうこともありました。

こうした経験について振り返りたいと思います。

今回の記事はあくまでも自分への戒めです。ただ、「人間関係で上手くいかない」と悩む人たちの参考になる部分もあると思い、一般公開します。

また、個人情報流出の観点から、個人が特定できるようなエピソードは書きません。

「好きな人を応援する」の「好き」とは?

私が「好きな人を応援する」と言うときの「好き」は、当然ながら、性的な意味での「好き」ではありません。

「魅力的」「素敵」「かっこいい」「かわいい」などの言葉が付け加えられても、「性的に一線を越えたい」という意図は絶対にないことを、予め断っておきます。

私が口にする「好き」は、その人の良いところに目を向け、その人の更なる活躍やより良い未来を願い、見返りを期待せずに「応援したい」という気持ちを言葉にしたものです

もし性的な意味で好きならば、本人や周囲に対して「好き」とは絶対に言いません。もっとオブラートに包んで別の言葉で表現します。

そもそも私はネット上に顔も名前も個人情報もかなり出ています。そのような人間が迂闊に一線を越えようとすれば、社会的に抹殺されかねません。

実際、社会的に抹殺されてしまった人を知っているので、そこについてはかなり慎重です。

以上、誤解が生じないように、先に明示しておきました。

「好きな人を応援する」に暴力は要らない

私はもともと人間関係が淡泊です。

友人知人、さらには親に対してすら、連絡が来ない限り、こちらからは滅多に連絡しません。そのため、いつの間にか縁が切れています(笑)

このような私にも濃厚な人間関係が一つだけあります。家庭教師先の生徒との関係です。

もちろん、私が生徒と個人的に連絡先を交換して頻繁に連絡を取り合うことはありません。あくまでも指導日時の調整や宿題の指示、質問対応で連絡するくらいです。

しかし、生徒とは定期的に顔を合わせるので、このときにしばしばトラブルが発生します。

私は、何らかの形(仕事や趣味など)で関係を築いた人たちを、基本的には「好き」になります。

もちろん、生徒たちも「好き」です。

だからといって、イベントなどで出会った「好き」な人たちと同じように対応するわけにはいきません。あくまでも仕事として生徒たちに接しているからです。

私は、生徒たちの成績アップや志望校合格を目指します。さらには、彼らが日常生活や課外活動などでも周囲の人たちに評価され、「大切にしてもらえる人」になってもらいたいと思い、勉強を教えながらいろいろ話します。

このとき、彼らが素直に私の言うことを聞いてくれればよいのですが、そうならないことも少なくありません。

私は彼らを自分の言いなりにしたいわけではありません。しかし、「このままでは不合格になる」「こういう態度が続いたらいじめの対象になる」といった懸念を抱いた場合、彼らをきつく注意してきました。叱責することもありました。

生徒たちの個人的な事情や内面に踏み込むこともあって、私は「嫌われ役」になることも厭いませんでした。

これが家庭教師としての私なりの「好きな人を応援する」でした。

私の「厳しい」態度がきっかけで、良い意味で大きく変わった生徒たちもいました。一方で、私が本当に嫌われ、縁を切られて終わることもありました。

後者の場合、私は「仕方ない」と自分に言い聞かせてきました。

最近、これは「仕方ない」のではない、と気付きました。

私が「厳しく」しなかったのに離れていった生徒や保護者については、本当の意味で「仕方ない」です。彼らに対しては何とも思いません。

一方、私が「厳しく」して離れていった生徒や保護者は違います。

「厳しさ」は、「好き」が暴走し、「応援」の方向性がおかしくなった結果の単なる暴力です。生徒や保護者が理解してくれないのではなく、私自身に問題があっただけです。

「好きな人を応援する」に暴力は要りません。身体的な殴る蹴るは論外ですが、相手の欠点をあげつらって執拗に責め立てるのも暴力で、これは愛情でも何でもないと現在は思っています。

個人塾の中には、「厳しさ」を売りにしている塾もあり、そういう塾のブログなどを読んで、私は勘違いしていました。仮に「厳しさ=愛情」だとしても、そこに至るまでの関係性があるわけで、私が目の前の生徒たちに対して「厳しく」してよいわけではありません。

私に「僕のことは嫌いになってもいいから、僕の言う通りにしろ」と言われ続けてきた生徒が、最後の授業のとき、「先生のことは嫌いじゃありません。だから、そういうことを言わないでください」と言っていたのを今さらながら思い出し、自分は当時からずっと未熟だったことを反省しています。

「自分と似ているから好き」が他害行為に

私にとって「好きな人を応援する」で最もトラブルになりやすいのは、出会って間もない人たちです。

たとえば、イベントでアーティストさんに会って、情熱的に「好きです」と伝えたとします。このとき、言葉の選択をミスって、「あなたの作品が好きです」が「あなたが好きです」に解釈される(と思われる)ことがたまにあります。

私がベラベラ喋っていて、アーティストさんの表情がこわばったのに気づき、「ヤバッ!」と思ったときには手遅れです。

こうなってしまったら、私は「嫌われても仕方ない」と自分に言い聞かせて、その場をサッと離れるようにします。「下心があるのでは?」と思われた時点で、後からどんな言い訳をしても、却って関係が悪化するだけです。

アーティストさんの中には、ギャラリーストーカーに怯えている人たちもいます。彼らが脅威と判断した私がその場でグズグズ何かを言い続ければ、彼らの恐怖や不安が増すだけです。

中でも一番ダメなのは、他人に自分を映してしまうことです。

「好きな人を応援する」の「好き」を「この人は自分と似ているから好き」にしてしまうと、鏡に映った自分を愛しているのと同じになり、傍から見ればナルシスティックで気持ち悪いはずです。その気持ち悪さは「好きな」人にも伝わって、その人に恐怖や不安を与えかねません。

親密な人に対してすら、「昔の自分が~だったから、この人にも…してあげたい」と言いながら、頼まれてもいないのにあれこれやってあげていたら、その人に嫌がられることがあります。

ましてや、友好関係がきちんと構築されていない人に対してなら尚更です。親密でない人に、「昔の自分が~だったから、この人にも…してあげたい」と思った時点で、それはその人への脅威になり得ることを忘れてはいけません。

「この人は自分と似ている」と思ったのなら、自分がやられて嫌だったことをしないのが一番の応援です。相手から求められていないのに、積極的に「この人のため」に行動するのは、自己満足の域を超えて他害行為になる可能性すらあります。

「好きな人を応援する」と適切な距離感

「好きな人を応援する」は、自分とその「好きな」人との間に適切な距離感があってこそ成り立ちます

その距離感を無理に縮めようとすると、「応援」は脅威と化します。ストーカーなどの犯罪に発展するのもこの状況です。

どんなに相手を大切に思う気持ちからであっても、その相手から脅威と判断されかねない言動をしてはいけません。

私もこれは理解していますが、何らかのきっかけで感情のスイッチが入ってしまい、愚かな言動をしてしまったことが多々あります。

大学1年前期、一番「好きな」友人に「おまえは俺の心に土足で踏み込んでくる」と言われ、ハッとしました。

これ以降、私は意図的に彼からも、彼が所属するグループからも離れました。夏休み明けは、彼らと講義すら被らない時間割にして距離を置きました。

結果として、逆に彼らとの関係は良好になりました。昼休みなどに偶然会えば、一緒に食事をしたり、立ち話をしたりして、それなりに楽しいキャンパスライフだったと思います。

たとえ「好きな人を応援する」で失敗した人でも、縁があればまた再会します。そのときに軽く言葉を交わし、それが繰り返されれば、いずれ彼らが警戒を解いてくれるかもしれません。そうならなくても、本当に好きならば、彼らの活躍を陰ながら応援すればよいだけです。

大切なのは、自分がどう思うかではなく、他人にどう思われたかです

自分の内心がどうであれ、他人を誤解させてしまったことや、他人の目に自分が脅威と映ってしまったことは、全て自分のせいです。それなのに、「あの人はわかってくれない」と嘆いても意味がありません。自分の言動を改善していくことだけが未来への希望です。

ここまで書いた内容を、私はこれからも自分に言い聞かせ続けるつもりです。

コメント

タイトルとURLをコピーしました