古文の学習で通過しなければならない関門に「和歌の修辞」があります。和歌の修辞とは、和歌に用いられる表現技法のことです。
本記事では、多くの高校生が苦手とする和歌の修辞について、分かりやすく解説します。
枕詞=五音のカザリ
枕詞(まくらことば)は、特定の言葉の前にくっつく五音の言葉で、意味がないので訳しません。“五音のカザリ”と覚えましょう。
「母」の前には「たらちねの」がくっつく
(例)たらちねの 母が手離れ かくばかり すべなきことは いまだせなくに
詠み人知らず(万葉集)
「山」の前には「あしひきの」がくっつく
(例)あしひきの 山のしづくに 妹(いも)待つと わが立ち濡れし 山のしづくに
大津皇子(万葉集)
枕詞にはもともと意味がありました。しかし、後世ではその意味が失われていますので、枕詞をいちいち訳さなくてOKです。
序詞=長いカザリ
序詞(じょことば)は枕詞の進化形で、特定の言葉を導くためのカザリである点では枕詞と同じです。“長いカザリ”と覚えましょう。
序詞は七音以上で長いので訳します。訳さないと、和歌が一言で終わってしまいますからね。有名な例を見てみましょう。
あしひきの 山鳥の尾の しだり尾の 長々し夜を 独りかも寝む
柿本人麻呂(拾遺集)
山鳥の尻尾の話をしているのに、途中から「夜に独りで寝る」という話になっています。これは、「長い」というイメージを、山鳥の長く垂れ下がっている尻尾にたとえているんですね。つまり、「あしひきの山鳥の尾のしだり尾の」は「長々し」を導く序詞です。
和歌の意味的には、「長々し夜を独りかも寝む」だけ訳せばOKですが、それだとサミシイので「あしひきの~」も訳します(以下の太字下線部が「あしひきの~」の訳)。
【訳】山鳥の垂れた尾のように長い長い秋の夜を私は独りで寂しく寝るのだろうか。
ちなみに、「あしひきの」は「山」を導く枕詞です。序詞の中に枕詞が含まれています。
掛詞=ダジャレ
掛詞(かけことば)とは、2つ以上の意味が含まれている言葉です。“ダジャレ”と覚えましょう。
寒いオヤジギャグっぽいですが(笑)、当時の貴族たちの間では高尚な技巧と考えられていました。実際に例を見てみましょう。
立ちわかれ いなばの山の 峰におふる まつとしきかば 今帰り来(こ)む
中納言行平(古今集)
どこにダジャレがあるか、分かりましたか?
- いな → 「往(い)な」と地名である「因幡(いなば)」の「いな」
- まつ → 「待つ」と「松」
くだらないですが、口語訳にはきちんと掛詞の2つの意味を反映させます(以下の太字下線部が掛詞の訳)。
【訳】お別れして因幡の国へ行っても、因幡山の峰に生えている松の名のように、皆が待つというならばすぐにでも帰って参りましょう。
縁語=連想ゲーム
縁語(えんご)は、特定の語に関係の深い語を和歌に盛り込む表現技法です。“連想ゲーム”と覚えましょう。
1990年代、日本テレビ系で「マジカル頭脳パワー!!」という人気番組が放送されていました。この番組の中に「マジカルバナナ」という連想ゲームがありました。
「マジカルバナナ」
「バナナといったらすべる」
「すべるといったらスキー」(以下、連想ゲームが続く)
「マジカルバナナ」のような言葉遊び(和歌の修辞)が縁語なんですね。有名な例を見てみましょう。
から衣 きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる 旅をしぞ思ふ
在原業平(古今集・伊勢物語)
「なれ」「つま」「はるばる」「き」は、「衣」という言葉から連想される縁語です。しかも、これらの言葉は掛詞にもなっています。
- 「なれ」 → 「慣れ」(慣れ親しむ)と「褻れ」(よれよれになる)
- 「つま」 → 「妻」と「褄」(着物のへり)
- 「はるばる」 → 「遥々」と「張る」
- 「き」 → 「来」と「着」
ちなみに、この和歌には折句も使われています。五・七・五・七・七の一文字目をつないでみてください。「かきつばた」という花の名前になりますよね?(当時、「は」と「ば」は区別されていませんでした)
言葉遊び(和歌の修辞)がたくさん盛り込まれた、在原業平らしい和歌です。
本歌取り=パクリ
本歌取(ほんかど)りは、他の歌人が読んだ歌から言葉を拝借する表現技法です。“パクリ”と覚えましょう。
「本歌取り」というとカッコイイですが、パクリですよ、パクリ!!
著作権のない時代ですから、パクったからどうというわけではありません。むしろ、「昔の人の和歌を知っていて、それを自分の和歌に取り入れるなんて、とても教養があるのね!!」と称賛されました。時代が違うと、パクリに対する認識も変わるんですね(笑)
本歌取りの例も見てみましょう。まずは、パクられた歌(本歌)から。
苦しくも 降りくる雨か 神(みわ)の崎 狭野(さの)のわたりに 家もあらなくに
長忌寸意吉麻呂(万葉集)
『新古今集』や『小倉百人一首』の撰者として有名な藤原定家は、この歌の太字下線部を見事にパクりました!
駒(こま)とめて 袖うちはらふ 陰(かげ)もなし 佐野(さの)のわたりの 雪の夕暮れ
藤原定家(新古今集)
当時の貴族たちは、「佐野(狭野)のわたり」という短い言葉から、『万葉集』に読まれた情景を想像できたのでしょう。和歌を適切に解釈するためには、古典に基づいた教養が必要だったのです。
和歌の修辞は恐れるに足らず!!
和歌の修辞は、定期試験で出題されるだけでなく入試問題にも頻出です。実際に、センター試験の過去問から、和歌の修辞に関する問題を抜粋してみますね。
題しらず 壬生忠岺
有明のつれなく見えしわかれより暁ばかりうきものはなし
これは、女のもとに行きながら、閨(ねや)へも入らず、立ちながら門より帰り来にけるよし言ひたるにて、「有明」は有明の月をいへるなり。(中略)
また、かの歌を本歌にて、新古今に、定家卿 、
帰るさのものとや人のながむらん待つ夜ながらの有明の月
これにても、門より入らで立ち帰りし事を知るべし。
問、「帰るさのものとや人のながむらん待つ夜ながらの有明の月」の歌の説明として最も適当なものを、次の①~⑤のうちから一つ選べ、
①「人」は逢ってくれない女であり、暁に至ってもなお門の前にたたずんでいるのに、もう帰ったと思いこんでいるらしい女のつれなさを男が嘆いている。
②「人」は訪ねてくるはずの男であり、今ごろは違う女のもとから帰り道でこの「有明の月」を見ているのだろう、と悲しみながら女が推量している。
③「人」は帰ってくるはずのない女であり、今ごろ有明の月を見ているわけがない、なぜなら待っている私の所へ訪ねてこないのだから、と反語的に否定している。
④「人」は世間一般の人々を指し、今ごろその人たちは、私が女に逢った後の帰り道でこの「有明の月」を見ているのだろう、と推測している。
⑤「人」は忠岺を暗示しており、彼ほどの歌人が「有明の月」を女に逢った帰り道に見るものとして歌に詠むことがあろうか、いやない、と忠岺の歌を評している。
(2002年度追試験)
本歌取りに関する問題です。このタイプの問題では、傍線部の和歌だけではなく、本歌とそれについての筆者の解釈もあわせて考えることがポイントです。
筆者は、「有明の~」の和歌を、「女のもとに行きながら、閨へも入らず、立ちながら門より帰」った男の歌であると解釈しています。(「女のもとに行」くのは、当然男ですよね。)
このことから、「帰るさのもの」として有明の月を眺める「人」は、女のもとに行きながら帰った男だと分かります。したがって、「人」を「男」と解釈している②が答です。難しくありませんよね?
和歌の修辞は恐れるに足りません。最低限の知識と解法のコツを習得していれば、必ず正解できるからです。「和歌の修辞が苦手」という高校生は、食わず嫌いせずに、和歌を含む問題にチャレンジしてみてください。
トップ画像=写真AC
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コメント
≪…和歌に取り入れるなんて、とても教養…≫で、
数の言葉ヒフミヨ(1234)を百人一首の66番と33番に・・・
もろともにあはれと思へヒフィミヨに数よりほかに知るひともなし
久方の光のどけきながしかくしづ心なく四角生るらむ
数の言葉ヒフミヨと静のカタチ『自然比矩形』と動のカタチ『ヒフミヨ矩形』『ヒフミヨ渦巻』に想う・・・
この物語の風景は、3冊の絵本で・・・
絵本「哲学してみる」
絵本「わのくにのひふみよ」
絵本「もろはのつ」