中高生の読解力が低いことについてしばしばニュースになります。
2017年11月7日には、朝日新聞が「教科書の文章、理解できる? 中高生の読解力がピンチ」という記事を公開しました。
この記事をふまえて、家庭教師の僕が自らの指導経験に基づいて考察します。
リーディングスキルテストの衝撃的な結果
「中高生の読解力がピンチ」の記事内容は、国立情報学研究所の新井紀子教授たちの研究グループがリーディングスキルテストを使って調査した結果、教科書や新聞記事のレベルの文章を理解できない中高生が多くいることが分かった、というものです。
この調査では、「割合に関する文章を円グラフ化することができない」「文の主述関係を正確に把握できない」といった、中高生の読解力に関する問題が明らかになりました。
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リーディングスキルテストには、「幕府は、1639年、ポルトガル人を追放し、大名には沿岸の警備を命じた」と「1639年、ポルトガル人は追放され、幕府は大名から沿岸の警備を命じられた」が同じ意味かどうかを問う設問がありました。正解は「異なる」。というのも、「幕府は大名に命じた」は「幕府は大名から命じられた」に言いかえられないからです。
この設問で不正解だったのは、中学生の42%、高校生の27%。彼らは、「~する」(能動)を「~される」(受動)に書きかえるスキルが未熟なのでしょう。
助詞や助動詞を適切に使えない中高生
家庭教師として生徒たちと接してきた僕も長年、子どもたちの読解力が低いことに危機感を抱いていました。それが国立情報学研究所の調査結果と見事に合致しました。
能動を受動に書きかえるスキルが未熟な中高生は、「てにをは」などの助詞や「です・ます」などの助動詞を適切に使えないと考えられます。このことは学習のあらゆる面で困難を来します。
たとえば、算数(数学)では、「7を9で割る」と「7で9を割る」は異なります。「7を9で割る」は「7÷9」で、「7で9を割る」は「9÷7」です。「を」と「で」を区別できない生徒は、「どっちをどっちで割るんだっけ?」と悩んで、適当に計算式を作ってしまいます。
また、英語でも、「トムとボブは野球をします。」と「トムはボブと野球をします。」は異なる英文です。「トムとボブは野球をします。」は“Tom and Bob play baseball.”で、「トムはボブと野球をします。」は“Tom plays baseball with Bob.”です。前者の主語は「トムとボブは」(複数)なのでplayは原形ですが、後者の主語は「トムは」(三人称単数)なのでplayに三単現のsがついてplaysになります。
さらに、「トムとボブは野球をしました。」だと、「しました」からplayがplayed(過去形)になります。英語が苦手な生徒たちの多くは、日本語の助詞や助動詞に意識が向かないため、英訳で混乱します。
日本語は語順によって文意が変わる言語ではありません。そのため、助詞や助動詞が文意を決める上で重要な役割を果たします。こうした日本語の特徴を理解できない「雑な」生徒は、頑張っているのに成績が上がらないという壁にぶつかります。
「わからない」の背景にある問題
「中高生の読解力がピンチ」の記事で調査対象となった読解力だけでなく、日本語の読み書き能力全般を「日本語力」と定義します。その上で、日本語力が人格形成にどう影響するかを考えてみたいと思います。
たとえば、「私は、野球をしている男の子を見ました。」と「私は、男の子が野球をしているのを見ました。」は同じでしょうか?
これは、「同じ」と考えて問題ありません。「野球をしている男の子」という修飾・被修飾の関係を、「男の子が野球をしている」という主語・述語の関係に書きかえただけだからです。
「修飾・被修飾/主語・述語」の書きかえも、記事中で紹介されていた「能動/受動」の書きかえに並んで、多くの生徒たちが苦手とするところです。
こうした書きかえができない生徒たちは、一般的に成績が伸び悩みます。中には、学校の成績が良好だったり、マークシート方式の試験で高得点を叩き出したりして、学力が高く見える生徒もいます。
しかし、彼らの「高い学力」は全てまやかしです。それは、彼らに文章を書かせてみると一目瞭然です。彼らは、問題文の意図を読み取れずに的外れなことを書きます。助詞や助動詞がグダグダで理解不能な文章を書くのも彼らの特徴です。
彼らは日本語力が未熟なため、とにかく「わからない」状態にあります。他人の言っていることを理解できないし、教科書などの文章も独力で読み取れません。もちろん、自分の言いたいことを相手に正確に伝えるのも困難です。
だからといって、「わからない」は日常生活に支障を来すわけではありません。普段の会話は、身振り手振りで何とかごまかせますし、相手が合わせてくれることも多いからです。そのため、日本語力が未熟な生徒たちは、「わからない」から目を背け続け、「きっとこうだろう」と突き進んだ挙句、歪んだ自我で凝り固まってしまいます。
未熟な日本語力と歪んだ自我
歪んだ自我とは、「自分は絶対に正しい」という思い込みに捕われている状態です。次のような気持ちが強過ぎる人は、歪んだ自我の持ち主です。
- わからないのは自分のせいではなく相手のせいだ。
- 自分がわかる範囲で物事を理解すれば良い。
- 難しくて理解できないことは全てシャットアウトしよう。
- 自分の言いたいことが伝わらない相手とは関わりたくない。
これらが表面化すると、次のような問題行動に発展します。
- 「自分がわかるからいい」と言って、答案や提出物に必要なことを書かない。
- ちょっとでもわからないことに出会うと、それを投げ出してふてくされる。
- プライドばかり高くて、注意されたことを素直に聞き入れない。
- 理解できないことがあると、先生や参考書などのせいにする。
問題行動を繰り返す生徒たちは、「わからない」ことに対する怒りや不安を抱えています。この「わからない」の原因は、自分の思考や感情、他人の言動、出来事の経緯などを日本語で論理的に分析できないため、物事を客観化できず、いつも主観的に(=自分中心に)判断せざるを得ないことにあります。彼らの頭の中は、さまざまな情報や思考などが入り乱れてグチャグチャです。
彼らに必要なのは、頭の中のカオス状態を整理するための日本語力です。日本語のルールに則って論理的に物事を考える習慣が身に付けば、彼らは勉強面や生活面で徐々に落ち着いてきます。
大人もまともに文章を読み書きできない
家庭教師指導では、「君は何をしたいの?」「これらの2つは何が違うの?」「この数値は何を意味しているの?」などと質問して、生徒に言葉で説明させることに拘ってきました。これに面食らう生徒が多く、体験指導の段階で「無理」と音を上げる生徒も少なくありませんでした。
このような惨状になっているのは、そもそも大人たちがまともに文章を読み書きできていないことにも原因があります。SNSなどのやり取りでも、書かれていることを読みもせず、攻撃的な態度を示したり、無関係なことを言って絡んだりするのをしばしば見かけます。
大人ができないことを中高生に要求しても無理でしょう。日本は非常に危機的な状況にあります。
トップ画像=フリー写真素材ぱくたそ / モデル=河村友歌
コメント
たとえば、「私は、野球をしている男の子を見ました。」と「私は、男の子が野球をしているのを見ました。」は同じでしょうか?これは、「同じ」と考えて問題ありません。「野球をしている男の子」という修飾・被修飾の関係を、「男の子が野球をしている」という主語・述語の関係に書きかえただけだからです。
と上記の記載がありましたが、ニュアンスが違うと思います。
「私は、野球をしている男の子を見ました。」は男の子を見ているのであって野球をしているところがメインではない。
「私は、男の子が野球をしているのを見ました。」は野球をしているところ(姿)を見ているのであって、男の子を見ているのではないでしょうか?
確かに男の子が野球をしているところを見ているのですが、主眼は「男の子」か「野球をしている」かということで二つの文章は違うと思います。
コメントありがとうございます。
道祖尾さんのおっしゃる通り、語順や文法構造、使用される語句などが異なれば、同じ意味の文章でも全てニュアンスは違います。
たとえば、「私はドーナッツを食べた。」と「私が食べたのはドーナッツだ。」はニュアンスが違いますし(英語では後者を強調構文で表すと思います)、「私は笑った。」も「私が笑った。」もニュアンスが微妙に異なります。ニュアンスということで考えたら、記事中で紹介した「リーディングスキルテスト」の出題についても、「ニュアンスが違うので正解無し」になってしまいます。
今回僕が記事で書いたのは、ニュアンスの話ではなく、あくまでも意味が同じかどうかということについてです。「意味が同じ」と判断した上で、「この2文のニュアンスはどう違うのかな?」と考えるのは大切なことだと思います。