【崇徳院】保元の乱で敗れた上皇が讃岐国で怨霊になったって本当?

【崇徳院】保元の乱で敗れた上皇が讃岐国で怨霊になったって本当? 小学・中学社会
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『雨月物語』に描かれた崇徳院

江戸時代後期、江戸で発展した町人文化が化政文化です。この時期に流行した読本(よみほん)に、上田秋成(うえだあきなり)が書いた『雨月物語』(うげつものがたり)があります。『雨月物語』には、9つの怖い話が入っています。その中の「白峯」(しらみね)という話に、崇徳院の怨霊が登場します。

「白峯」とは、香川県坂出(さかいで)市松山にある山で、山頂に崇徳院の墓があります。この物語の主人公は、日本全国を旅して歩く僧の西行(さいぎょう)です。西行はもともと鳥羽上皇に仕えていた武士でしたが、和歌が上手だったため、和歌を好む崇徳院とも交流があったとされます。『新古今和歌集』を代表する歌人で、百人一首86番の作者としても有名な人物です。

物語は、西行が白峯を訪れたことから始まります。西行は、崇徳院の墓の前で経を読み、歌を詠みました。そこに崇徳院の怨霊が現れ、保元の乱で敵となった者たちを恨み、人々を操って平治の乱を引き起こし、後白河法皇の仲間の命を次々と奪ったと言います。さらに、平氏が滅びることも予言しました。

西行は、崇徳院が怨霊となったことを悲しんで、「よしや君昔の玉の床(とこ)とてもかからんのちは何にかはせん」と詠みます。この歌を聞いた崇徳院は、穏やかな表情で消えてしまいました。

山を下りた西行は、崇徳院の怨霊と出会ったことを誰にも話しませんでした。しかし、世の中では、崇徳院の予言通りの出来事が起こっていきます。

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崇徳院が怨霊となった理由

保元の乱の後、崇徳院は悪い出来事を次々と引き起こしていると考えられました。そして、『保元物語』でさらに恐ろしく描かれ、江戸時代の『雨月物語』などにも怨霊や魔王として登場します。こうして崇徳院は日本を代表する怨霊となったのです。

崇徳院に限らず、歴史上の人物は、人々のうわさや文学作品などを通して、実際とは違った姿へと変わっていくものです。

トップ画像=Wikipedia

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