小説問題で登場人物の心情をどう答える?客観的な読解と深読みの境界

みみずく先生のプロ家庭教師&ライター奮闘記 国語

国語が苦手な生徒たちの中には、「評論は得意だけれども小説が苦手なんです」と悩む生徒がいます。確かに、彼らは評論問題で高得点を叩き出します。しかし、小説問題では失点が目立ちます。その原因は何なのでしょうか?

 

「小説は苦手」という生徒が陥る罠

入試国語では、さまざまな小説が題材として出題されます。中高生の青春の一コマを描いた小説だと、「読みやすい」と生徒たちは言います。一方、時代背景も戦前で老人が主人公という文章だと、「こんなの分かんない」と生徒たちは文句タラタラです。

「小説問題で正解できるかどうかは、本文との相性にかかっている」ともいえそうですね。しかし、本当にそうなのでしょうか?

僕は否の立場です。というのも、「読みやすい」小説で生徒たちが高得点できているわけではないからです。本文は「読みやすい」はずなのに、生徒たちは選択肢問題でボコボコ間違います。彼らが陥っている罠について考えてみましょう。

「小説は得意だけれども評論が苦手」という生徒もいます。彼らの言う「小説は得意」は単なる錯覚です。これまで解いてきた小説問題がたまたま高得点だったから、彼らは「小説は得意」と思い込んでいるだけです。

そもそも評論ができなければ「国語(現代文)ができる」ことにはなりません。評論問題は、最低限の語彙力と論理を正確に追える力、すなわち「国語力」があれば必ず正解できます。「評論が苦手」と言う生徒には、根本的な国語力が欠如しているということです。

小説問題では、何となく読んで、何となく解いて、何となく「正解」することもあります。それを「得意」と言っているようでは、国語全体の点数アップは難しいでしょう。というよりも、そんなレベルで「得意」と勘違いしてしまう生徒のほとんどは、勉強全般がいい加減です。彼らは、国語に限らず、他の科目の成績もいまいち振るいません。

「読みやすい」小説なのに間違い続出!

平成21年度都立高校入試の国語には、橋本紡「永代橋」の一節が出題されました。小学5年生の島村千恵と彼女の祖父・エンジとの交流を描いた小説です。

エンジはぶっきらぼうな性格で、感情をあまり表に出しません。「気が向いたら(また俺のところに)来い。」と千恵に言った後に、「気が向かなかったら来なくていい。」と続けるようなツンツンした性格です。

そんなエンジと一緒に千恵が永代橋(東京都の隅田川にかかっている橋)を渡るシーンが問題の本文に採用されました。言葉遣いは平易で、全体的に「読みやすい」印象を生徒たちに与えました。

しかし、問2で、生徒たちの解答が大きく分かれました。正解のアではなく、不正解のエを選ぶ生徒たちが多かったのです。

客観的読解と深読みの違いは?

多くの生徒たちが間違った問2の問題は次の通りです。

「少し歩くごとに、エンジは待っていてくれた。」とあるが、この表現から読み取れるエンジの様子として最も適切なのは、次のうちではどれか。

正解の選択肢アは次の通りです。

その場を去りがたそうな千恵の気持ちを察し、名残を惜しませてやろうとさりげなく気遣っている様子。

一方、多くの生徒たちが選んだ不正解の選択肢エは次の通りです。

遠回りをしていつもの散歩道を歩くことで、少しでも長く千恵と一緒にいられることを喜んでいる様子。

エを選びたくなる生徒たちの気持ちは僕も分かります。エンジはぶっきらぼうです。しかし、本文のあちこちの描写から、エンジが千恵のことを大切に思っているのは明らかです。その流れの中で、「少しでも長く千恵と一緒にいられることを喜んでいる」という発想に至ってもおかしくはありません。

しかし、答はあくまでもア。その根拠は、問題となっている傍線部の直前「自然と千恵の足取りは遅くなった。」でしょう。この一文を考えてみます。

千恵の気持ちが分かるエンジはどうすべき?

千恵の足取りが遅くなったのは何故でしょうか?

それは、エンジと別れたくない、家に帰りたくない、という気持ちが千恵にあるからでしょう。だからこそ、「少し歩くごとに、エンジは待っていてくれ」ました。このときのエンジは何を思っていたのでしょうか?

自然な解釈として、「名残を惜しませてやろうとさりげなく気遣っている」を選べるはず。この解釈の流れを客観的読解です。10人中9人が「こういう場合は●●する」と考える●●を選ぶ(書く)ことが、入試国語における客観的読解です。

エンジが「喜んでいる」根拠はどこにある?

エの選択肢のような、エンジが「少しでも長く千恵と一緒にいられることを喜んでいる」ことを示す明確な根拠は本文中にはありません。

たしかに、エンジは、家に帰る予定の千恵を連れて、わざわざ遠回りをします。しかし、遠回りの理由、もしくはその理由を推測できる描写がありません。当然、エンジが遠回りした理由を聞かれたら、「分かりません」と答えるか、「千恵が帰る前に、いつもの散歩道を歩かせたかったから」と答えるのが限度でしょう。エンジが「少しでも長く千恵と一緒にい」たかったのかどうかは不明です。

つまり、エは深読みだから正解とならないのです。このような深読みを排除できない生徒たちは小説問題を苦手とします。

小中学校の国語教育の現状

「小説は苦手」と意識している生徒に限らず、多くの生徒たちは小説問題で深読みします(というか、僕でさえ、たまに深読みして撃沈します(笑))。そんな深読みの原因は、どこにあるのでしょうか?

鑑賞に偏った国語教育

僕は、小説問題で生徒たちが深読みしてしまう原因は学校の国語教育にある、と考えています。

しばしば指摘されますが、現行の小中学校の国語教育は文学鑑賞に偏っています。この小説を読んで主人公の気持ちを自由に考えましょう、この短歌の鑑賞文を自由に書きましょう、という授業ですね。

「自由に」というところがポイントです。本文中の語句や論理関係などに基づいて客観的に心情を読み解くのではなく、感覚や印象に任せた解釈を生徒たちに推奨しているのです。

「閑さや岩にしみいる蝉の声」の解釈

たとえば、小中学校の国語の授業で、「閑さや岩にしみいる蝉の声」という松尾芭蕉の俳句を扱うとします。先生は、前後の文章や学者の解説文などもなしにこの俳句を生徒たちに提示して、「このときの芭蕉はどんな気持ちだったでしょうか?」と発問します。

生徒たちはさまざまな意見を出します。「蝉の声だけが聞こえる静かな場所で孤独を感じています」「蝉の声がうるさくてうんざりしています」など。どれも正解・不正解とも評価しようがありません。先生は、「そういう考えもありますね」と言って、生徒たちの意見を次々と黒板に書いていきます。

意欲的な(?)生徒は、他の生徒と意見が被らないように、わざわざひねくれた解釈をします。「自分を蝉に重ね合わせて、蝉の一生が短いことをかわいそうだと思っています」。こんな訳の分からない意見に対しても、「面白いですね」と先生は評価して……というやりとりが延々と続きます。小中学校の国語教育は、「深読みしなさい」と教えているようなものです(高校はもう少しマシか?)。

大学の文学部で行われる「購読」

小中学校の国語教育は、大学の文学部で行われる「購読」に近いように思います。

僕は、大学生時代、国語の教員免許を取得するため、国文学の購読に参加していました。そのとき、「購読では、多様な読みの可能性を開くことを目的としています」と教授は話していました。

解釈の可能性に目を向ける

教授がわざわざ購読の目的を話してくれたのは、僕がいちゃもんをつけたからです。

「文学部で行われる文学作品の解釈は、法学部の条文解釈と違って、厳密さを欠いている。一義的な解釈を決められないならば、文学研究は『学問』や『科学』といえないのではないか?」

当時の僕は、クソ生意気なことを言っていたんですね(笑)。そんな僕に対して、文学作品の一義的な解釈を追求するのではなく、「こういうふうにも読めるよね」という解釈の可能性に目を向けてほしい、ということを教授は教えてくれました。

鑑賞に偏った国語の授業が混乱をもたらす

大学は、多角的な視野を養うための場でもあります。そういう意味で、大学で文学作品を購読する意義はある、と僕も思います。もちろん、大学の購読のような鑑賞は、生徒たちの感性を養うために、小中学校でも行われるべきです(美術や音楽などの「実技科目」と同じ扱いとして)。

しかし、鑑賞に偏った国語の授業が、客観的読解を求められる入試国語と連動していない、という点は問題視されるべきでしょう。受験生たちが混乱し、「国語はフィーリングで解く」などという迷信が蔓延しているからです。

小説問題での得点率と精神年齢は関係あるの?

「学校の国語の授業と入試国語とでは、そもそも考え方が違うんだよ」と僕は生徒たちに教えます。生徒たちも納得はしてくれます。それでもなお、入試国語の小説問題でなかなか正解に辿り着けない生徒たちが出てきます。

登場人物の言動と心情を結び付けられない

「小説が苦手」という生徒たちの中には、登場人物の言動と心情を結び付けられない生徒がいます。そんな生徒は、10人中9人が「こういう場合は●●する」と言うのに対して、「いやいや、こういう場合は▲▲するでしょ?」と主張します。とても貴重な10人中1人!(笑)

たとえば、「『泣いているAさんに、B君は手を差し伸べた。』とあるが、このときのB君の気持ちは?」という問題があるとしましょう。「泣いているAさんを慰めようという気持ち」などが、普通に考えれば正解でしょう。

しかし、10人中1人に当たる生徒は、「Aさんと一緒に遊びたいという気持ち」などと答えます。こういう生徒は、泣いている人に手を差し伸べる行為の意味が本当に分かりません。実際に自分が経験していないことは理解できないのです。

もしかしてアスペルガー症候群?

10人中1人に当たる生徒は、いわゆる「空気が読めない」生徒です。これが極端化すると、「アスペルガー症候群」(「アスペ」と略されることも)と診断されます。そのため、「小説問題が全然解けないなんて、もしかしてうちの子はアスペルガー症候群?」と保護者は不安がります。

しかし、小説問題がボロボロの生徒たちのほとんどは、アスペルガー症候群ではありません。彼らは、人生経験と読書経験が乏しいため、言動と心情の関係をパターン化できていないだけです。

精神年齢が低い生徒の国語対策

「国語(特に小説)ができない生徒は精神年齢が低い」としばしばいわれます。

男子の精神年齢は、女子と比較して10歳くらい低い、という話もあります。その真偽はさておき、男子の方が小説問題を苦手としますし、普段の彼らの言動に幼さが目立つのも確か。男友達とつるんで異性に目を向けない男子は、ラブストーリーの読解で苦労します(笑)。

僕の指導経験上、男子に限らず、国語の出来不出来と精神年齢には相関関係があるように思います。とはいえ、「精神年齢が低いから国語ができないのはしかたないよね」では指導になりません。

そこで僕は、精神年齢が低い生徒には、人間の言動と心情との関連をいちいち言葉で教えます。「ここでAさんが頬を赤らめたのは、B君のことが好きだったからだよ。恋愛感情は頬の赤さで表現されるんだよ」という感じで、とにかく生徒に教えます。

小説が苦手の原因は?「精神年齢が低い」でごまかす国語指導者を斬る
「国語の読解で小説が苦手」という生徒たちの傾向を分析し、具体的な対策を考えます。「小説が苦手=精神年齢が低い」とは異なる視点を提供します。

客観的読解と深読みの境界はあいまい

精神年齢云々の話をすると、「小説問題では、客観的読解と深読みの境界があいまいじゃないか!」というクレームが来そうです。が、実際その通りなので反論できません。小説問題では、本文に明示されている言動や情景描写などから、明示されていない心情を読み取るのですから。

国語の読解問題は、「正しいものを選べ」ではなく、「最も適切なものを選べ」という指示ですよね?つまり、一番マシな解釈を選べればOKです!

そのOKのラインを把握するには、過去問の分析を通して、「出題者が何を正解としているのか?」を見極める必要があります。

トップ画像=フリー写真素材ぱくたそ / モデル=河村友歌

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